令和2年7月31日
お金に困って追いつめられまして…
一度くらいはあるでしょう。その時。
悪人正機の教えに驚いて感動して入った浄土真宗の門ですが継ぐ寺がない。困った。
築地本願寺で新しくお寺をつくる仕事があると飛び込んだ世界。いまに至ります。
指導していただいた先輩と「死んでもお寺を作る」と約束したので本気でした。
約束はぜったいにまもる。負けるもんか…
お寺をつくるまでは死んでも負けないという思いでしたがお金がないことに負けた。どうしよう。保険金で何とかするか…娑婆のことで悩むなんてなさけない。
現実を目の前にして死ぬのはイヤだ。もう少しだけ生きていきたい!とこころの叫びでした。
死んで保険金をお寺に突っ込もうと毎日一升の焼酎を飲み続けたあの日々。
医者に「このままだと死にます。もう治りません」と言われた時にはもう…もう…もう…こわかった。
「死にたくない」という痛切な思いに襲われて…死のうと思って酒飲んであと少しのところでこわくなってやめるなんて…愚かとはこのことよ。この痛切な思いをなんとかせねばと原点にもどりました。
死ぬのがこわくてこわくて…いやで…死なない方法探しました。
痛切な思いがなくならない。後悔にも襲われる。妻や息子ともう少し一緒にいたい。あぁ。これが私の本性か。法話を毎日聞きました。
「あなたはこのままだと死にます」
この言葉。たすからないんだ。この言葉を聞いてもこわくなるだけ。
だから本当の言葉を探しましたよ。助かる言葉を探しました。必至で探しました。阿弥陀如来の言葉を聞きまくりました。親鸞聖人の言葉を聞きまくりました。
朝から晩まで、眠れないから一日中…深夜も…朝も…そのような生活を三年半続けましたよ。
ひとりぼっち。
ご法話をお聴聞していてよかった!
ある日のこと。「そうか阿弥陀如来におまかせするだけでよかったのだ。おまかせするだけ」
かなり楽になります。自我とたたかう必要がなくなりこの身は滅んでなくなるけれど私は仏様になるのだと受け入れたら楽になりました。
阿弥陀如来に感謝。親鸞聖人、蓮如聖人、善知識の人に感謝であります。闘病生活を支えてくれた妻にはご苦労をかけました。感謝。笑顔を絶やさない息子にも感謝。
みんなのおかげであの日の約束を果たすことができました。ありがとうありがとう。
死にかけました。法話聞きまくりました。血液検査の結果が良くなりました。
娑婆にかえってきました。おまかせおまかせ。阿弥陀如来におまかせ。死んだらほとけ。今、生きているだけですばらしい。奇跡だ!ありえない!
病気になって法話を聞いて阿弥陀如来におまかせができてよかった。おどろいた。ラッキーラッキー
阿弥陀は私といつでもどこでもわたしといっしょに生きています。ありがたい。かたじけない。阿弥陀の智慧に導かれ慈悲に励まされ生きています。
お前は死なない。かならずほとけになる。無量のいのち、無量のひかりそのものになるんだ。阿弥陀如来になるのだ。南無阿弥陀仏になる。南無阿弥陀仏になって娑婆に帰ってくる。寿命がくるまでの貴重な今日を精一杯生きていこうと思います。目覚めと気付きをくれた人々とその教えを伝えてくださった人(善知識さま)に感謝。よろこびでいっぱいの気持ちです。機法一体の生活となりみんなに伝えています。病気自慢や苦しみ自慢ではありません。
やっとわからせていただいたことを訪ねてくる人とよろこびあえたらそれだけで最高の充足感。
あしたはどんな人との出会いがあるかしら。
阿弥陀如来に導かれて出会う出会いのわくわく感がたまりません。
本気で打ち込んでよかった。安心して死んでいけるし生きていける。なむあみだぶつであります。
ひとしお。
こころの眼を育て、こころの眼を開いてみていただいたら確かに存在する世界
末期の眼で見たらこの世はうつくしく光り輝く世界でした
生きているだけでよろこびがうれしさが心の底からあふれてくる
生きているだけで儲けもの
後生の一大事を解決したらそのようになります。
ほんとうのことばに出会う
ほんとうのことばだけが人をたすける
ほんとうのことば…ことば…なむあみだぶつはことばのことば
いのちの根源からあふれ出てくることば
そのことばは音楽だったり絵画だったりさまざまな姿になっています
こころの眼を開いていただいたならばみえてくる、聞こえてくる世界
南無阿弥陀仏をとなえるとこころの眼が育ちます
生きることと死ぬことが解決したらたすかります。たすかった人の話しを少しでも聞いたら助かります。その人のことばが聞こえたとき(瞬間)に死ぬことと生きることが問題なくなります。助かったら問題なく生きていけます。