あなたは誰かをしあわせにするために生まれてきたんじゃないのか?
仏教を学ぶということは自分を学ぶということです。阿弥陀如来の光に照らされると本当の自分の姿に目覚めます。目覚め続けるなかで智慧を授かり新しい視野が開かれるのでしょう。
「助かった」とお互いに仏法を聞いて笑いあえる人といっしょに過ごす時間が多く恵まれるといいなと思っています。
自分がお念仏の教えを理解できないからといって怒ったりがっかりしたりする必要はありません。阿弥陀如来の言葉を聞き南無阿弥陀仏を称えようと一声でも口に出てきたら出てきたお念仏が教えてくれます。
人として生きる時間、与えられた時間は少ないですから仏教行事を行う時間は最高のよろこびを味わいたいと痛切に思います。『生きた仏様』はこの口から出てくる南無阿弥陀仏。それはそれはたいそう不可思議なことですからその話しを共有したいと痛切に願っています。
優れた人は大いなる力に導かれ生かされているという感覚を持っています。その感覚を磨くのが生きるということではないでしょうか。敗北・屈辱・負けそうになる、逆境に襲われた時、自己の魂が磨かれます。
阿弥陀如来の阿弥陀は無量寿と無量光という意味です。量ることの無い寿と光。かぎりの無いいのちと光に手を合わせ私をまるごとお任せして生きる。
無限の寿命と光に身と心をまかせたら生かされていることに目覚め、安らぎに目覚め、大いなるはたらきに導かれ生きているという実感が生まれます。
すがた形を変えてどこにでも存在する阿弥陀。いないところはどこにもない。私は阿弥陀如来に帰依していますという言葉は言い換えると無限の寿と光におまかせしますという意味です。手を合わせ礼拝するとき常に無限の寿命と光に包まれているよろこびの中で生きてみませんか。つらいとき、悲しいときはなおさら智慧を授けてくれます。いっしょに真理のことばを摘み取りませんか。
生きることと死ぬことが解決したらたすかります。わたしは助かりました。信を得た人の話しを少しでも聞いたら助かります。その人のことばが聞こえたとき(瞬間)に死ぬことと生きることが問題なくなります。助かったら問題なく生きていけるじゃないですか。死んでいくことが問題なくなれば生きていけます。それが助かったということです。それはとてもやすらぐ心、平和な心です。