断酒三十六日目

 どれほど「死にたくない」と願ったことでしょうか。死に照らされると直視しない時間はありません。「必ず死ぬ」「いつか死ぬ」「間違いなく死ぬ」そこから逃れたいのは生きている人の共通の思いです。

 

 人知を超えた出来事、問題、課題にぶつかって一切の努力が通用しないとき人は願い、祈ります。

 

 願い、祈ることが悪いというのではなく、どうにもならないことがわかると「願う」のが人の本質です。どれほど強い思いで願い続けても「死」から逃れることはできません。

 

 とことん願い続けたその先にあるものは何でしょう。

 

 願われている事に目覚めます。救われないわたしが願いをかけられていることに目覚めます。

 

 「死」から逃れたくて願っていたわたしにかけられている願いがあった。どれほど努力してもどうにもならない現実が「かけられている願い」に目覚めるきっかけとなります。

 

 身近な人が死んでその姿に手を合わせるとき「死んだ人はどのような願いを残してくれただろうか」と問いが生まれます。法要・法事を営む意味は「仏の願いを聞く」ということと同時に「仏となった方の願いを聞く」ということです。願われている私であった。願いをかけ続けてくださっておられたと願いに気が付き目覚める瞬間があります。

 

 仏事は何も無駄な時間を過ごしているのではありません。実感として「ありがたい」と思えない人は「願う人」かもしれません。その願いはどのような願いでしょう。願っても願っても願いが叶わないと打ちのめされ、あきらめきったら反転して願いをかけてくれる対象があることに気が付きます。その気付きと目覚めの後は「ありがたい」「もったいない」「死んだあとの心配は一切なし」など感謝の思いや穏やかな気持ちとぬくもりの生まれる時間を過ごし始めます。

 

 ほとけさま、阿弥陀様に願われて願いをかけ続けられていることを聞き続けると実生活の中でも願われていることを実感するはずです。

 

 死んだ人の願いが聞こえてくる。

 

 この世の中すべての人に願いがかけられています。願いの外にいるひとは一人もいません。