· 

断酒三十一日目

 「死」を常に意識して(意識せざるを得ないので)いると今まで自分が言ってきたことや行動してきたことの中で何が間違っていたのか何が成功したのか、この先はどうするのか。いろいろ考えます。

 

 このままの路線で今までと同じく頑張るのか。それとも変化に対応して別のやり方で挑戦するのか。いずれ必ず「死」ぬのだ。いま生きていることが嬉しくてまだ「何かできるだろ?」と欲が出てきます。お釈迦様はブラフマン(インドの神様)に「あなたは真理を伝え続ける」「教えを伝え続ける」ことを寿命が尽きるまでの使命となさいました。

 

 お釈迦様が涅槃にお入りになっても肉体が滅してもなお現在に教えが残っています。人がなぜ苦しむのかということに解決の道を示し、なぜ死をおそれるのかということについても答えをお示しになってくださいました。

 

 人間の根本的な苦に対する根源的な解決方法がお釈迦様の教えです。みんな四苦八苦しながら生きているのでわたしの「苦」や「死」に直面したとき真実の解決策に身を託して生きていくようになるのでしょう。

 

 朝、6時くらいに駐車場の落ち葉を掃いていると「散りをはらえ垢をはらえ」という声が聞こえてきます。通勤する人のお姿を見て「今日も一日良い日でありますように」と念じたりします。今日が人生最大の勝負の日という人もおられるでしょう。

 

 お医者様に「死」をほのめかされた後、パニック状態になりお仏壇の前で「死にたくありません。何とかしてください」とお願いしてしまいました。祈らない、お願いをしないと聞いてきたのですが追いつめられるとなんてことはありません。情けなく思うことであります。

 

 親鸞聖人と同じ道、同じ教えを信じて生きていくことができて安心しています。人は追いつめられるとものすごい力を発揮する場合もあれば正常な精神状態を保てなくなってアタフタと情けない姿になってしまうこともあるのです。そんな「あなただからこそ救わないではいられない」という仏さまとともに歩むことができるので安心です。これだけは「死」を意識しても無くならない、動揺しないゆらぐことのない安心でした。

 

 そのような日常の中、そういえば今の土地建物を取得するまでは必死な心境のなか「浄土真宗のお寺を立てるまでは死んでも死ねないぞ」と自分自身を奮い立たせていたことを思い出しました。志が人を強くするのでしょう。良い時ばかりではありませんから歯を食いしばって耐えることができたように感じます。

 

 それでも「死」に直面すると「こころざし」がどれほど強くても雲散霧消してしまいます。

 

 何のために頑張ってきたのだ。不健康になるためにやってきたのか。死んだらもともこうもないではないか。いろいろと心の中で葛藤します。その一つ一つの疑問が「マーラの声」であることは間違いないでしょう。

 

 悪魔のささやきです。

 

 その声と戦っていると疲れます。いままでのことも全否定され、努力など無駄なことのように感じます。すべてを捨てて無所得の状態になれば救われるのではないかという衝動と激突することもあります。

 

 安倍総理が辞任なさったので「安倍ロス」です。さまざまなマスコミからの批判を耐えてきた姿には憧れの感情さえ抱きました。とにかくお疲れさまでしたと思い手を合わせています。

 

 健康を損なうと政治判断を間違うかもしれないという安倍総理の言葉が胸にしみわたりました。私自身も健康をそこなっているので味方ではない人が私と接したら「お坊さん辞めろ」と罵声を浴びせられることもあるかもしれないと静かに自分自身の姿を俯瞰したりします。

 

 小さな会社を経営していようと自営業であっても「健康」でなければ満足のいく仕事はできません。どれほど「健康」に気を配って気を付けていても病気から逃れることができないので志の高い人であればあるほど「無念の思い」も強いと想像します。

 

 「託されている」ということを意識しました。

 

 この世に生きている人すべてが「何かを託されている人」です。

 

 「死」に照らされてすべての人が無駄な人生を生きているのではなく「何かを託されて」生きている人だと実感します。あの人もこの人もみんな何かを託されて、意味のある人生を生きています。それぞれが託された内容をはっきりイメージできるとしあわせかもしれません。あなたも「何かを託された人」の一人。世界中の人がもれなく「何かを託された人」です。