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断酒二十九日目

 みんな苦しさを抱えながら生きています。

 

 世界中の人がもれなく「思い通り」にならないことに悩み、苦しみ、どうにかしたいと思いながら生きているのではないでしょうか。

 

 生きているだけでしあわせだという感覚を持っている人も少なからず存在します。今日は日曜日なので家族とゆっくり過ごしたり、子どもや友人とどこかに出かけたりしながら「これがしあわせかしら」と思いながら過ごしています。

 

 お互いにつながりをもって影響しあいながら生きています。

 

 嫌なことがあったとそのことを思い出しながら過ごす一日もありますがすべてのいのちが「死」を必ず迎えるのだと考えたら自分自身がどう生きるべきかをしっかりと考えて過ごす方が良さそうです。誰かが言ったことや書いている事を参考にするのもいいと思いますが「わたし」はいったいどう生きたいのだと自分に問いかけて「この生き方なら死ぬ寸前に後悔しない」という「生き方」を追求する方が先に死んでいった人と再会したときに笑顔で再会できそうです。

 

 みんな「これでよかった」と思える毎日の積み重ねの中で生きていると思います。あの人さえいなければと思うこともありますし、強く恨んだり憎んだりするような体験をする場合もあります。相手があることですがお互いに自然に死んでいくのだと考えたら「恨み」も「憎しみ」も薄まり、そのような感情に支配される今日はあまりにも時間が無駄だということに気が付いて「どう生きようか」と前向きな気持ちになれるような気がします。

 

 しあわせそうに見える。楽しそうに見える。人と比べたらきりがありません。比べれば比べるほど惨めな思いに包まれたりします。しあわせそうに見えたら自分もその人のしあわせをよろこび、楽しそうに見えたら自分も楽しいことをいっぱい体験できるのだと考えると可能性が無限大に広がります。

 

 すべては変化して変わり続けるものです。今日の悲しみが永遠に続くことはありません。今日のしあわせも楽しさも永遠に続くことはないのです。変わり続けたその先に「死」があると想定するよりも「今日精一杯生きて今日のわたしは死んだ」と思うくらいの方が生きていることを実感できるようです。

 

 朝を迎えて目が覚めたら「生まれ変わったわたし」「新しいいのち」を生きるということになります。昨日の「わたし」は死んだのです。

 

 なぜ「死」をおそれるのでしょう。

 

 わたしたちの周囲は「死」がたくさんころがっています。虫の死。魚の死。鳥の死。犬や猫も虫や魚に比べたら寿命が長いように感じますが必ず死にます。虫は死をおそれるでしょうか。魚や鳥、犬や猫は死を想像して死をおそれおののきながら生きているのでしょうか。

 「死」を意識しながら「死」をおそれることなく生きることはできないことなのでしょうか。きっとできるはずです。大きな「いのち」に帰る。大きな「いのち」としてあたらしく生まれるということに気が付いたら自然の道理のなかで自然に死んでいくだけだと受け止めることができます。

 

 草も木も虫も鳥も私とは違わない私と同じ「いのち」です。草花が枯れて土にかえり別のいのちに姿を変えます。木が葉をたくさん落として虫の食事となり虫が鳥のいのちに変わり鳥がわたしのいのちに変わります。いのちはつながりあっていて独立したいのちとしてバラバラには存在していません。

 

 すべての「いのち」がつながりあい時にはわたしの「いのち」に姿をかえます。わたしが死ぬときは草や木、花と同じように鳥や動物と同じように新しいいのちの出発をするだけです。人は一筋縄ではいかない生き物ですから「あなた」と「わたし」を分けて考えます。隣の人とわたし。親とわたし。ともだちとわたしは同じではありません。別々の人生を別々の価値観の中で生きていると感じます。

 

 別々だと思ったら「あの人と同じようになりたい」とか「うらやましい」とか「あの人さえいなかったら」と考え始めます。別々に考えることを否定してそれは「しあわせ」「救い」ではないと言い切ったのがお釈迦様です。

 

 お互いがつながりあい大きないのちに包まれ一つのこころになっていることほどしあわせなことはない。

 

 人はどう生きるべきか。自分に問いかける。