なぜ浄土真宗のお寺が必要なのか

 以前、わたしが大好きなご講師の先生のご法話を聞いていたときに「みなさん、限りのあるいのちが終わっていくことは世界中の人が知っています。死んでいく事を知らない人はひとりもいないでしょう。死んでいく事を知らない人は一人もいないけれどさとりを開いて仏さまになることを知っている人は浄土真宗の人だけなんですよ^^」とお話になられたことがあって、それ以来、照光寺で行う仏事や法事などでよく使うようになりました。

 

 ある人に「お念仏を一度も聞いたことがない。称えたこともない。浄土真宗のお寺に行ったこともない人は阿弥陀如来さまと同じほとけさまになりますかね」と質問したところ「みんな仏さまになる」とお答えになる人がいるので不信感を抱き不安になってしまったので詳しい人に聞いてみました。

 

 その人は「残念だけれども正直に答えると仏さまにならないと思う」ということでした。

 

 「阿弥陀如来さまと同じほとけさまになって成仏する教えを聞く場所」として浄土真宗のお寺が存在します。浄土真宗のお寺でなければ聞くことができませんし浄土真宗のお坊さんでないと聞くことができないのです。

 

 ある坊守さんが記念の冊子をお作りになられて一冊頂戴して帰ってきたことがあります。梯實圓先生が手づとめでご法話をしてくださっているようなお寺だったのでとてもありがたいエピソードがたくさん書いてありました。その小冊子の中にも「誰でも無条件で仏さまになると言う人がいるけれど何もしないで誰でもみんなが仏さまになるのなら浄土真宗のお寺は必要ありません」という趣旨のことが書いてあったことを思い出します。浄土真宗のお寺に一度も言ったこともなく自宅に仏壇もない状態でお念仏に接したことも聞いたこともないという場合には「仏さまにならない」のだと素直に受け止めたら不信感がなくなります。

 

 そのお言葉はとてもありがたいと思いました。

 

 浄土真宗の教えを聞いて「なもあみだぶつ」と称えさせていただきながら必ず仏になる道を歩んでいきたいものだと思います。ものごと「はっきり」と誤魔化さずに表現する人の方がありがたいのです。

 

 その日のご法話では「臨終を迎えて死んでいくとき浄土真宗の教えを聞いてない人はただ単に死んだというだけです」というお言葉のお残しになられたのでお念仏を称えるように育ててもらったことを素直によろこびました。

 

 ただ単純に死んでいくのは人に生れさせてもらった以上とても「もったいなく」感じるのです。