スポンジをかむ感じ

 生きている間に仏法に出会ってほしいと念じる日々をすごしています。

 

 はじめての人に「いつでもどこでもいっしょの仏さま」と言っても受け止め方はその人の感受性に委ねられるものなので無表情だったりすると「スポンジを口に入れられているような感じ」になって口をパクパクしてしまいます。

 

 明日は群馬県の敬西寺さんの常例法座があり布教に出かけることになっているので「何を話そうか」と思案中。

 

 さとりを開いたその人の見ている「いのち」の姿とさとりを開いていない状態の私たちが見ている「いのち」の姿は全く違うものです。

 

 さとりを開いていない状態で見えるものを「正しいあり様」として錯覚しているのが凡夫。

 間違ったあり様を「正しい」と錯覚しているのが凡夫…そのようなことを考えながら、これまで出会った「はじめての人」に少しでもまことの安らぎは伝わっただろうかと思い出したりします。

 

 臨終までの時間、先立たれて行かれた人々は何を思いながら過ごしていただろう。後悔の念かやりきったという思いか…不安や身体の痛みで取り乱しながらの臨終。いつかはわたしも体験しなければならないのかと思ったら「たまらん」という念がこの頃強いのであります。

 

 痛風の薬が体に合わず吐き気がしたり倦怠感が強かったりします。それだけでも「たまらん」のにもっと強い薬などの副作用に耐えなくてはならなくなったら「たまらん」「たまらん」だ。

 

 年齢を重ねていくだけで「死にたくない」との思いが強くなっていきます。ご門徒さんが残したノートに「生きたい」と書き残されていましたが衣食住が最低限整っていて身も心も健康な状態ならずっと生きていたいと思うのだろう。

 

 力なくして終わっていく時わたしは何を思うのだろう。